田原俊彦 野村義男 近藤真彦 オリジナル・スペシャル写真集

tanokin

先日、店主が〝わたしが喜ぶものを買ってきた〟というので何かと思ったら、この写真集でした。

週刊セブンティーン特別編集「田原俊彦 野村義男 近藤真彦 オリジナル・スペシャル写真集」昭和57年 集英社

たのきんトリオ全盛期の中学~高校時代、熱狂的な田原俊彦(以降、トシちゃん)ファンだったわたしのために買ってきてくれたようです。300円也。
トップ写真は、裏表紙です。豊島園で開催されたイベントの広告らしく、〝君とTOSHI・ま・園〟というコピーがいかにも80年代らしくて懐かしいかぎりです。

週刊セブンティーンは、当時は購読しておらず、この頃は月刊明星や月刊平凡の方を愛読し、トシちゃんのページのみを切り抜いては、硬くて紙が挟めるプラスティック製の下敷きに入れていました。

ちなみに、高校時代には月刊セブンティーンを愛読していて、その後廃刊となりましたが、この雑誌は「ヤングユー」という漫画雑誌へと引き継がれ、20歳過ぎても読んでいました。
このヤングユーは、「ハチミツとクローバー」をはじめ、名作ぞろいの素晴らしい漫画雑誌でした。個人的には、鴨居まさねの「秘書・恵純18歳」と「雲の上のキスケさん」がいちばん好きでしたが、榛野なな恵の「Papa told me」や緒形もりの「うちのうめは今日もげんき」も大好きでした。

「うちのうめは今日もげんき」は、実際に作者の飼っていたアライグマが主人公の漫画で、やりたい放題の自然児のようなアライグマ〝うめ〟の行動が読んでいてとてもおもしろく、うめをシャンプーすると洗いたてはなぜかカニの雑炊のニオイがしてそれからはカニの雑炊が食べられなくなったというエピソードを読んだときは大笑いしました。自分も経験がありますが、犬の洗いたても言われてみれば不思議とカニの雑炊臭になります。乾くと生臭さは全く無くなりシャンプーの良い香りだけが残ります。

トシちゃんファンの友人とコンサートに行ったりしていた(NHKレッツゴーヤング観覧も含む)たのきん全盛期についても、少女漫画雑誌についても、書いているとキリがないのでまた別の機会にお付き合いくださいませ。

古本街道をゆく五「長崎古書組合市会」

IMG_9446
黒板に名前を書いてお出迎え。名前が「太郎」になってるのもご愛嬌(笑

長崎県諫早市内の某所。三月に日本古書通信(以下古通)で行った長崎取材旅行は、ちょうど長崎古書組合の市会と重なっていた。ふるほん太郎舎さんから「市会覗いてみない?」との誘いもあり、また古通編集部より「写真撮ってきて」の指令もありで、ご迷惑も省みずノコノコ覗いてきた。

市会とは古書組合が運営する古本の市場で、組合員が古本を売ったり買ったりする業者市だ。東京のように週五日開催するところもあれば、長崎のように月一回、中には二・三ヶ月に一回という所もある。昔のように、お客さんが本を売る場合に「古本屋に持ち込む」以外の選択肢がなかった時代と違い、今はネットオークションや大手新古書店など「本を売る手段」に事欠かない時代だ。最近ではAmazonが買い取りを始めるというニュースもあった。だから当然、組合の市会に流れ込む本の量も年々減少傾向にある。
だがお客さんにとって「本を売る手段」が増えたということは、古本屋にとって「本を買う手段」が増えたということでもある。私などは根が楽天的なので、古本屋にとって「本を買う手段」が増えた現代を肯定的に捉えている。その気になれば海外からネットを通じて簡単に本を仕入れることもできるのだから、最高ではないか?

IMG_9474
「振り」では合いの手も入って賑やかな長崎の市会。

そして強調しておきたいのは、他にはない「組合の市会」の強みがあることだ。
古本屋というものになって、膨大な本の大海の一端を知り、つくづく思ったことがある。それは「インターネットで検索しても出てこないイイ本(or 紙の資料)はたくさんある」ことだ。
今はインターネット万能の時代で、IT企業の広告の出稿料を上げてやるために、個人がソーシャル・ネットワークで嬉々として自分のプライバシーを公開するような特異な時代である。だからネットで検索して出てこないものは存在しないも同然だし、価値あるものはすべてネットにあると考えてしまいがちだ。いずれはそうなるかもしれない。でも今の時点では、「価値ある本がすべてネットにある」と考えるのは間違いだ。

IMG_9472
長崎のあーる書房さん。イイ表情です。

たとえばブックオフでもAmazonでも、買い取りの中心はバーコードの付いた本であるだろう。日本の本にバーコード(ISBN=国際標準図書番号)が付いたのは一九八一年以降だから、それ以前の本は二束三文で買い叩かれるか買い取り不可となるだろう。
だが神田の市会を覗けば、バーコードが付いた本はむしろ雑本扱いで、業者が目を皿のようにして見ているものはバーコードが付いていない本、もしくは資料である。また月の輪さんや石神井さんの古書目録を見れば、ネットで検索しても出てこない本や資料ばかりである。そして数十万、ときには億の値がつく逸品は、バーコードの付いていない、つまり日本最古の印刷物とされる「百万塔陀羅尼経」から一九七十年代までのものなのだ。そしてこの「バーコードが付いていない」本や資料に強いのは、今でも組合の市会だと私は思っている。

話が長くなったのでここらで切るが、最後に長崎の市会で知り合った佐賀の西海洞書店さんのブログを紹介したい。古本という大海の一端を知るのに打って付けのブログである。
◼︎ 西海洞書店〜落穂拾遺譚

IMG_9519
長崎の市会の出品物の一部。

雑誌Oliveの〝紙の香りと質感〟

IMG_9928

今日は、「本とコーヒー tegamisha」に80年代後半の雑誌オリーブをまとめて納品いたしました。
私が20代の頃、ちょうどこの時期に愛読していたこともあり、どのページをめくっても懐かしく思い出されます。
あの頃、毎月3日と18日のオリーブの発売日を心待ちにしていた理由はいくつかあり、モデルさんとファッションがとてもかわいかったこと、堀井和子さんと泉麻人さん(=オカシ屋ケン太)の連載が好きだったこと、オリーブの紙の香りと紙の上にパウダーをはたいたような質感の紙質が大好きだったこと、などです。

オリーブの紙の独特の香りというのは、何と表現したらよいのか正確な言葉が見つかりませんが、とても清潔な香りがします。
年月が過ぎ、古本としていま手にしているオリーブも、あのときと同じ香りです。
いまから10年以上も前に、あの頃のオリーブの紙のことが気になり、出版社にメールで問い合わせてみたことがあります。
間もなくとても丁寧なお返事をいただき、そこには、あの紙はスウェーデンから輸入していた紙で、もういまは入手できない紙だということでした。

IMG_9931

先に書きました泉麻人さんの連載ですが、〝オカシ屋ケン太〟というペンネームで「おやつストーリー」という懐かしい昭和のお菓子を紹介する読み物がありました。
私が子どもの頃に好きだったお菓子で、もういまは販売されていないものがいくつかあります。森永のチョコレート菓子「カリンチョ」雪印のアイス「宝石箱 」グリコのガム「スポロン」などなど書きだしたらキリがありません。
ちなみにこの連載は単行本化(文庫も)されていて、当店でも単行本が「本とコーヒー tegamisha」に置いてあります。

昨日、MOUNTAIN BOOK DESIGNの山本さんと、古書モダン・クラシックの新しいロゴのデザインのための打ち合わせをしました。ショップカードや看板制作などもお願いしたので、いまからとても楽しみです。

La Mer − 写真と散文による銚子雑感

枕を撼かす濤聲に夢を破られ、起って戸を開きぬ。時は明治二十九年十一月四日の早暁、場所は銚子の水明楼にして、楼下は直ちに太平洋なり。

IMG_9302徳富蘆花は、明治二十九年十一月、写生旅行のため来銚した。今はなき水明楼から見た銚子の日の出にいたく感動し、後にそのことを『自然と人生』の中で書いた。自然描写を得意とした蘆花の、名文中のひとつである。続けて彼は云う。

午前四時過ぎにてもやあらむ、海上猶ほの闇らく、波の音のみ高し。東の空を望めば、水平線に沿ふて燻りたる樺色の横たふあり、上りては濃き孛藍色の空となり、こゝに一痕の弦月ありて、黄金の弓を挂く。光さやかにして宛ながら東瀛を鎮するに似たり。左手に黒くさし出でたるは犬吠岬なり。岬端の燈臺には、廻轉燈ありて、陸より海にかけ連りに白光の環を畫きぬ。(『自然と人生』徳富蘆花)

IMG_9361

蘆花が見た「岬端の燈臺」とは、犬吠埼燈台のこと。英国人ブラントンにより設計され、和製レンガを初めて使用した灯台である。蘆花が見た四年前、明治七年に完成している。先日私が見た銚子の日の出も、蘆花の時と同じく、美しかった。

「犬が吠える」と書いて犬吠(いぬぼう)と読む。ここで義経の愛犬若丸が、船出した主を慕って七日七晩泣き続けたとされる。銚子に数多く残る、義経伝説のひとつだ。伝説と史実は違う。だがこの岬に、義経伝説を重ね合わせた銚子人のロマンティシズムは悪くない。

IMG_9204

銚子ははるか昔から醤油と漁業の町として栄えた。醤油も漁業も、この地に根付かせたのは紀州(和歌山)人であるとされる。「板子一枚下は地獄」の漁師と同じく、息つまる室(むろ)で働く醤油屋も、近代以前は荒くれ者の仕事であった。渡りの醤油屋者は西行と呼ばれ、広敷という泊り小屋で仁義を切って、働き仲間に加わったという(『銚子と文学』岡見晨明編より)。銚子弁は、他国者が聞くと怒られているように感じる、威勢のいいものだ。銚子の荒波と風土から生まれた言葉が、おとなしい訳がない。

IMG_9387

昭和二十年七月十九日、銚子にアメリカ軍による大規模な空襲があった。銚子空襲である。消失個数数千戸。死傷者は一千人超。醤油工場や銚子駅など市街地の大部分が灰燼に帰した。七十歳以上の銚子の人から、必ず一度は聞かされる漁師町の大事件だ。私の妻のお父つぁんは、十五万発のナパーム弾が降る中を、母親に背負われて近くの防空壕に命からがら避難した。先年死んだ婆さんが、その日の記憶で後々までうなされていた事を、妻ははっきり覚えている。

軍事施設も造船工場もない、醤油と漁業の町銚子に、なぜ空襲があったか。一説によると、銚子はB29が本土に入る通り口のひとつであり、東京空襲の帰りがけに余った爆弾を落として行ったのだとか。

IMG_9219

ニュージャージ州出身のノーマン・メイラーは、「太平洋戦争の文学を書く」野心を持って、二十一歳の時自ら従軍した。レイテ島での激戦を経て、一九四五年十月、メイラーは中隊と共に初めて日本に降り立った。そこは空襲によって無残に焼け野原となった、自然の美しい「小さな漁師町」だった。その場所の名前は「チョーシ」といった。

IMG_9268後に『裸者と死者』の中でメイラーは、日本兵士イシマルの手記として、当時彼が見た銚子の風景を描いている。

二里ばかりの銚子の半島は、日本全体の縮図だった。太平洋にむかって、数百フィートの高さに切り立った、大絶壁があった。まるでエメラルドみたいに完全で、きちんとつくられた豆絵の林、悲しげな低い小さい丘、魚の臓腑や人糞が鼻をつく。
銚子の狭苦しい、息もつまりそうな町、ものすごい人だかりの漁港の波止場。何ひとつむだにするものはない。土地という土地は、一千年の長きにわたって、まるで爪の手入れみたいによく手入れされていた。
(『裸者と死者』ノーマン・メイラー)

IMG_9295私が愛する銚子について、思いつくままに書いてみた。だが私には、銚子の円福寺に石碑が残る以下の句が一番しっくりくる。

ほととぎす銚子は国のとっぱづれ
古帳庵

 

写真/文:古賀大郎
撮影場所:犬吠埼観光ホテル