古本街道をゆく五「長崎古書組合市会」

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黒板に名前を書いてお出迎え。名前が「太郎」になってるのもご愛嬌(笑

長崎県諫早市内の某所。三月に日本古書通信(以下古通)で行った長崎取材旅行は、ちょうど長崎古書組合の市会と重なっていた。ふるほん太郎舎さんから「市会覗いてみない?」との誘いもあり、また古通編集部より「写真撮ってきて」の指令もありで、ご迷惑も省みずノコノコ覗いてきた。

市会とは古書組合が運営する古本の市場で、組合員が古本を売ったり買ったりする業者市だ。東京のように週五日開催するところもあれば、長崎のように月一回、中には二・三ヶ月に一回という所もある。昔のように、お客さんが本を売る場合に「古本屋に持ち込む」以外の選択肢がなかった時代と違い、今はネットオークションや大手新古書店など「本を売る手段」に事欠かない時代だ。最近ではAmazonが買い取りを始めるというニュースもあった。だから当然、組合の市会に流れ込む本の量も年々減少傾向にある。
だがお客さんにとって「本を売る手段」が増えたということは、古本屋にとって「本を買う手段」が増えたということでもある。私などは根が楽天的なので、古本屋にとって「本を買う手段」が増えた現代を肯定的に捉えている。その気になれば海外からネットを通じて簡単に本を仕入れることもできるのだから、最高ではないか?

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「振り」では合いの手も入って賑やかな長崎の市会。

そして強調しておきたいのは、他にはない「組合の市会」の強みがあることだ。
古本屋というものになって、膨大な本の大海の一端を知り、つくづく思ったことがある。それは「インターネットで検索しても出てこないイイ本(or 紙の資料)はたくさんある」ことだ。
今はインターネット万能の時代で、IT企業の広告の出稿料を上げてやるために、個人がソーシャル・ネットワークで嬉々として自分のプライバシーを公開するような特異な時代である。だからネットで検索して出てこないものは存在しないも同然だし、価値あるものはすべてネットにあると考えてしまいがちだ。いずれはそうなるかもしれない。でも今の時点では、「価値ある本がすべてネットにある」と考えるのは間違いだ。

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長崎のあーる書房さん。イイ表情です。

たとえばブックオフでもAmazonでも、買い取りの中心はバーコードの付いた本であるだろう。日本の本にバーコード(ISBN=国際標準図書番号)が付いたのは一九八一年以降だから、それ以前の本は二束三文で買い叩かれるか買い取り不可となるだろう。
だが神田の市会を覗けば、バーコードが付いた本はむしろ雑本扱いで、業者が目を皿のようにして見ているものはバーコードが付いていない本、もしくは資料である。また月の輪さんや石神井さんの古書目録を見れば、ネットで検索しても出てこない本や資料ばかりである。そして数十万、ときには億の値がつく逸品は、バーコードの付いていない、つまり日本最古の印刷物とされる「百万塔陀羅尼経」から一九七十年代までのものなのだ。そしてこの「バーコードが付いていない」本や資料に強いのは、今でも組合の市会だと私は思っている。

話が長くなったのでここらで切るが、最後に長崎の市会で知り合った佐賀の西海洞書店さんのブログを紹介したい。古本という大海の一端を知るのに打って付けのブログである。
◼︎ 西海洞書店〜落穂拾遺譚

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長崎の市会の出品物の一部。

La Mer − 写真と散文による銚子雑感

枕を撼かす濤聲に夢を破られ、起って戸を開きぬ。時は明治二十九年十一月四日の早暁、場所は銚子の水明楼にして、楼下は直ちに太平洋なり。

IMG_9302徳富蘆花は、明治二十九年十一月、写生旅行のため来銚した。今はなき水明楼から見た銚子の日の出にいたく感動し、後にそのことを『自然と人生』の中で書いた。自然描写を得意とした蘆花の、名文中のひとつである。続けて彼は云う。

午前四時過ぎにてもやあらむ、海上猶ほの闇らく、波の音のみ高し。東の空を望めば、水平線に沿ふて燻りたる樺色の横たふあり、上りては濃き孛藍色の空となり、こゝに一痕の弦月ありて、黄金の弓を挂く。光さやかにして宛ながら東瀛を鎮するに似たり。左手に黒くさし出でたるは犬吠岬なり。岬端の燈臺には、廻轉燈ありて、陸より海にかけ連りに白光の環を畫きぬ。(『自然と人生』徳富蘆花)

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蘆花が見た「岬端の燈臺」とは、犬吠埼燈台のこと。英国人ブラントンにより設計され、和製レンガを初めて使用した灯台である。蘆花が見た四年前、明治七年に完成している。先日私が見た銚子の日の出も、蘆花の時と同じく、美しかった。

「犬が吠える」と書いて犬吠(いぬぼう)と読む。ここで義経の愛犬若丸が、船出した主を慕って七日七晩泣き続けたとされる。銚子に数多く残る、義経伝説のひとつだ。伝説と史実は違う。だがこの岬に、義経伝説を重ね合わせた銚子人のロマンティシズムは悪くない。

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銚子ははるか昔から醤油と漁業の町として栄えた。醤油も漁業も、この地に根付かせたのは紀州(和歌山)人であるとされる。「板子一枚下は地獄」の漁師と同じく、息つまる室(むろ)で働く醤油屋も、近代以前は荒くれ者の仕事であった。渡りの醤油屋者は西行と呼ばれ、広敷という泊り小屋で仁義を切って、働き仲間に加わったという(『銚子と文学』岡見晨明編より)。銚子弁は、他国者が聞くと怒られているように感じる、威勢のいいものだ。銚子の荒波と風土から生まれた言葉が、おとなしい訳がない。

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昭和二十年七月十九日、銚子にアメリカ軍による大規模な空襲があった。銚子空襲である。消失個数数千戸。死傷者は一千人超。醤油工場や銚子駅など市街地の大部分が灰燼に帰した。七十歳以上の銚子の人から、必ず一度は聞かされる漁師町の大事件だ。私の妻のお父つぁんは、十五万発のナパーム弾が降る中を、母親に背負われて近くの防空壕に命からがら避難した。先年死んだ婆さんが、その日の記憶で後々までうなされていた事を、妻ははっきり覚えている。

軍事施設も造船工場もない、醤油と漁業の町銚子に、なぜ空襲があったか。一説によると、銚子はB29が本土に入る通り口のひとつであり、東京空襲の帰りがけに余った爆弾を落として行ったのだとか。

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ニュージャージ州出身のノーマン・メイラーは、「太平洋戦争の文学を書く」野心を持って、二十一歳の時自ら従軍した。レイテ島での激戦を経て、一九四五年十月、メイラーは中隊と共に初めて日本に降り立った。そこは空襲によって無残に焼け野原となった、自然の美しい「小さな漁師町」だった。その場所の名前は「チョーシ」といった。

IMG_9268後に『裸者と死者』の中でメイラーは、日本兵士イシマルの手記として、当時彼が見た銚子の風景を描いている。

二里ばかりの銚子の半島は、日本全体の縮図だった。太平洋にむかって、数百フィートの高さに切り立った、大絶壁があった。まるでエメラルドみたいに完全で、きちんとつくられた豆絵の林、悲しげな低い小さい丘、魚の臓腑や人糞が鼻をつく。
銚子の狭苦しい、息もつまりそうな町、ものすごい人だかりの漁港の波止場。何ひとつむだにするものはない。土地という土地は、一千年の長きにわたって、まるで爪の手入れみたいによく手入れされていた。
(『裸者と死者』ノーマン・メイラー)

IMG_9295私が愛する銚子について、思いつくままに書いてみた。だが私には、銚子の円福寺に石碑が残る以下の句が一番しっくりくる。

ほととぎす銚子は国のとっぱづれ
古帳庵

 

写真/文:古賀大郎
撮影場所:犬吠埼観光ホテル

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いわさきちひろとヒゲタしょうゆ

私は、いわさきちひろさんの絵が大好きで、練馬のいわさきちひろ美術館に何度か足を運びました。はじめて行ったのは、まだ改装前の頃で、2階へ上がる階段の踊り場に展示されていた数点の白黒のヒゲタしょうゆの広告を見て、幼い頃どこかで見たような懐かしい母と子の姿に強く心を奪われました。その後リニューアルされた練馬の美術館に行ったときには、あのとき見たヒゲタしょうゆの広告はありませんでした。

IMG_9509私の生まれ故郷である銚子には、ヤマサやヒゲタなどの醤油工場があり、工場見学ができるようになっています。銚子にあるヒゲタしょうゆの史料館には、私が見たものと同じ作品ではありませんが、いわさきちひろさんの手がけられた広告が数点展示されています。

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IMG_9521実家の本棚にある「いわさきちひろ作品集 7 詩・エッセイ・日記ほか」(1977年初版)。いまから10年以上前に購入したものです。となりにある卓上しょうゆは、工場見学をする際に頂けるもの。
この作品集には、ヒゲタしょうゆの広告だけでなく、いろいろな企業のポスターやパンフレットなどの作品が多数おさめられています。
ヒゲタしょうゆの仕事は、新聞広告・ポスター・紙袋など、昭和27年から昭和48年までの約20年に渡って続けられ、初期の頃の経済的に苦しい時代の貴重な収入源になっていたそうです。エッセイなども含め、いわさきちひろさんの本についてはたくさん読んだので、どの本だったかは覚えていませんが、このことについては、本人の言葉で書かれていたのを読んだ記憶があります。

政治家の夫、そして一家の生計をも支えるため、生まれて間もない息子を信州の父母に預け、絵を描き続ける日々。生活のため子と離れて暮らす中、溢れ出る母乳を我が子に与えることができないちひろさんは、近所に住む赤ちゃんに飲ませていたそうです。その赤ちゃんとは三宅裕司さんであり、信州の祖父母の家に預けられていた息子さんは、ヤギの乳で育ったというのを本で読みました。

IMG_9486 IMG_9485香ばしく網で焼かれた秋刀魚が美味しそうです。これに醤油をたらりと。ご飯がすすみそうな広告。

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この丼で天丼を食べてみたいと思いました。薄い緑と紫のクローバー柄のコーヒーカップとソーサーがかわいい。

IMG_9498贈答用の醤油缶。色とりどりのバラ模様の缶がレトロです。
ヒゲタしょうゆ史料館には、いわさきちひろさんのポスターの他、新聞広告、古いしょうゆ瓶やおそらく当時何かで配布されたと見られる商品(紙風船・鉛筆・丼・コーヒーカップなど)、醤油を製造するための道具などが展示されています。工場見学は無料です。

古本への旅 ①『中島のてっちゃ』あんばいこう

これまでこのブログで、「古本街道をゆく」という連載を四回ほど書いた(今後も続く)。そして今また新しい連載を始めたい。「古本街道をゆく」は、私が『日本古書通信』の取材で赴いた、様々な古書店を通してみた各地のフィールドワークであった。そして今回始める連載「古本への旅」は、ズバリ「一冊の古本」がテーマである。

私は古本屋である前に、一介の本好きである。だから「イイ本との出会い」に勝る人生の喜びはない。私が初めて「古本と出会った」のは二十代前半のことだった。芸術家が、自ら作るひとつひとつの作品によって前進し、芸術を深めて行くように、私も一冊一冊の古本との出会いを通してここまで来た。これからもそうだろう。古本屋になると、「通過する本」は増えても、「本との出会い」は意外と少ない。そしてあらゆる出会いと同じく、「本との出会い」もまた人間的なものだ。出会った当時の心境、読んだ時の感動や紹介してくれた人との関わり、その本を作った人の話など、私がこれまで出会ったイイ本には様々なエピソードが詰まっている。この「古本への旅」では、そんな「一冊の古本」に纏わる物語を紹介していきたい。

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『中島てっちゃ』チープな横尾忠則風な装丁もインパクト大。

『中島のてっちゃ』あんばいこう(無明舎、1976)

日本古書通信(以下古通)』の取材で地方に行くと、当然知っているものとして、私の知らない作家の名前を出される事がままある。その地方では有名でも、全国的な知名度はさほどでもない作家などだ。例えば取材で道東(北海道の東部)に行った時、更科源蔵の名前を何度か聞いた。あるいは長崎で取材した時、幾つかの古書店が野呂邦暢に関するエピソードを語ったが、私はその名を知らなかった(恥ずかしい)。そんな感じで岩手に行ったとき、さも知ってて当然という風に「あんばいこう」の名を出す古書店が多かった。
私があんばいこう氏の名を初めて聞いたのは、三年ほど前、岩手の浅沼古書店さんを取材した時だ。
浅沼古書店の店主の浅沼剛氏は、この道三十年以上のベテランで、東京の大学を中退後、地元岩手で地方新聞の記者をやったり、月刊誌『地方公論』の編集長をやったりした後、古書店を開業した異色の経歴の持ち主だ。そして『地方公論』の編集長だった浅沼氏に、古本屋になることを勧めたのが、あんばいこう氏である。
取材中、私があんばいこうを知らない、と言うと、ちょっと呆れた表情で浅沼さんが店の棚から出してくれたのが、今回紹介する『中島のてっちゃ』という本である。

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あとがきの著者(あんばいこう)近影

あんばいこう・昭和二十四年秋田県湯沢市に生まれる。秋田大学を中途で退学。様々な模索を続けて、四年前、古本屋、学習塾、企画室、装飾の下請けを業とする「無明舎」を主宰し、現在に至る。陽の当らない底辺に視点をすえ、満を持して年来の願望であった出版活動を始動させた。「地方」の枠にとらわれない伸びやかな出版活動をめざし、続けて刊行予定の本の企画、編集に全勢力を注いで行動している。(あとがきより)

その後あんばいこう氏及び無明舎は、地方出版の雄として、現在まで千二百冊以上の秋田や東北に根ざした本を刊行している。そのあんばい氏の処女作であり、無明舎の初の出版物がこの『中島のてっちゃ』だ。

これは、「中島のてっちゃ」と呼ばれた男の半生のドキュメントである。
常人より知能が低く、社会の生産に役立たないことによって底辺に生き、「河原者」という意味でしか「芸人」でなかったこの男は、半生の大部分を野外に寝泊まりし、街頭や歓楽街を尺八で門付けしながら、人々に蔑まれ、追い回され、しかも、愛された。
寵愛と暴力的仕打ちを交互に受けながら、ひたすら生活の糧を得るために秋田の街と陽の当らぬ昭和史の裏道を歩み続けた。
その半生は、富や地位とは無縁であったが、「市長の名を知らずとも、中島のてっちゃの名を知らぬものは秋田市民にあらず」の一言を残し、人々の郷愁の中に生き続けている。(前書きより)

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盛岡の浅沼古書店

浅沼古書店さんで早速この本を購入し、私は盛岡の宿に帰って一気に読んだ。久しぶりに「イイ古本」に出会ったと感動した。内容は高橋竹山の名著『津軽三味線ひとり旅』を彷彿とさせるもの。盲目であった竹山と同じく、知的障害のあった中島のてっちゃも尺八で門付けをして口を糊した。著者も語るように、これは陽の当らない昭和の裏面史、あるいは古くは室町から続く「門付け」という芸能の裏道をも記した一流のドキュメンタリーである。また、後に活躍する人物の処女作に特有な、一種デモーニッシュな迫力をこの本は備えている。例えばコリン・ウィルソンの『アウトサイダー』や三島由紀夫の『仮面の告白』のような、単なる文字の羅列を超えた力(迫力)が読むものを捉えて離さない。批評家でなくとも、この本の著者・あんばいこうが、秋田という雪国の地方都市の底辺で、笑いや蔑み、ときに暴力に身を晒しながらしぶとく生きるてっちゃの姿に、自分自身の内面的な何事かを重ね合わせていることは分かる。『中島のてっちゃ』は、あんばいこうの処女作でなければならなかった。そして中島のてっちゃは、あんばいこうの反転したヒーロー像として描かれている気がした。この本が、地方出版としては奇跡的な、一万部も売れたというのも納得できる。

あんばいこうの『中島のてっちゃ』。いろいろな出会いによって私の手元に来た一冊の古本。私のお気にいりの一冊として、売らずに私の書架に収まっている。

◼︎ 「中島のてっちゃのあるいた路」HARMLESS UNTRUTHS
◼︎ 「葬儀で罵倒された経験ってありますか?」んだんだ通信・無明舎